私家版歌集の一例として

こんにちは、笠原楓奏(ふーか)です。

2020年12月に第一歌集となる「人の死なない話をしよう」を刊行しました。
みんな読んでくれたかな?

resonosound.thebase.in

 

読んでくださっていてもそうでなくても構わないのですが、おかげさまで出版にかかったコストを回収することができました。いわゆる元が取れたというやつです。
ありがとうございます。

さて、もしこれから歌集を出そう!と考えている方の参考になればと思い、内訳を公開することにしました。
というのも、昨今の私家版歌集は500円〜1000円くらいで300首400首と入っているものが買える傾向にあります。
もちろん趣味で作っているので赤字でも読んでほしい、という気持ちでいる人も多いと思いますが、安くないと売れない市場になっているならそれはちょっと嫌だな、と思っています。1首あたりいくらだよ、とも思いますし。
あるいは、新たに出版しようとしている人が、「あの人が500円で出してるなら私は…」と躊躇するのも違うよな、と思っています。

したがって、自分自身で実験することにしました。
2000円という高めの金額をつけて売れるのか、という実験です。

戦略としては以下の通りです。

・価格が高い以上、付加価値の感じられる作りにする。
・多くの歌人さんが利用している文学フリマ、BOOTH等に出しても相対的に高く感じられ売れにくいと想定した上で、別ルートでの販売経路を構築する。
電子書籍やPDFにはせず、本の形で販売することの意味を追求する。
・宣伝を頑張る。良いものができたから買ってくださいとちゃんと言う。

結果から言うと、2020年12月23日に発売して、2021年1月19日現在で約40冊ほどが売れました。100部しか印刷していないので40%が捌けたことになります。
販売形態によって利率が異なるものの、30冊ちょっとで元が取れる見込みだったので無事、回収に成功しました。内訳はこちらをご覧ください。

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およそこんな感じです。
販売は日頃お世話になっている音楽スタジオのレソノサウンドさんのネットショップと店頭にお願いしました。

www.resono-sound.com


ご購入者様への送料・梱包料はレソノサウンドさんが徴収し配送しているので省略しています。
製本所は「ちょ古っ都製本工房」にお願いしました。
表紙については自分でデザインするよりも描いていただきたい方がいたのでお願いしたところご快諾いただけました。
そういうところでのコストカットを図るのは「価格が高い以上、付加価値の感じられる作りにする」の主義に反するので予算は惜しまず依頼しました。(イラストレーターさんが気遣ってくださった値段な気はしていますが)

ページ数は70ページ、収録歌数は約250首とその点に関してもその他の歌集より相対的に高くなっています。この歌集の中では他の人がやっていないことも平気でしているのであまり同じ土俵で勝負している感覚は無かったのですが、開けてみないことには表面的な部分で比較することになるのでその点やや不安ではありました。
販売の予約受付を開始すると、笠原楓奏は元々よくわからないことをしている奴、とよく知ってくださっている方を皮切りに広まり、結果としてフォロワーさんで無い方にも届くこととなりました。

日本一小さなインディーズ本屋さんのkamebooksさんにも置いていただけることとなりました。

kamebooks.jimdofree.com


しかし12月中に20数冊が捌けた後、完全に勢いが落ちました。
年末年始も挟むのでそれ自体は想定内でしたし、宣伝が続いて目障りになってきた頃だと思うので一旦宣伝を止め、第2波を起こす作戦を用意、1月17日に実行しました。

youtu.be


PVです。
この動画を添えたツイートを見ていただけたことでまた少し目を向けてもらえるようになりました。
(どうでもいいですがYouTube上でちょうど定型である31秒になるように調整したのにTwitterに投稿したら表示が30秒になっていたのは許すまじ……)

ということで、ほぼネット販売のみに特化し1ヶ月の販売期間で黒字となりました。

この結果をどう捉えるかは皆様に委ねるしかないのですが、もしこれから作った歌集に値段をつけるとき、「あいつがあの値段で売れたんだし」と思い出して強気に出ていただけたら嬉しいなと思います。
私は何の賞も受賞していないですし、うたの日の成績も大して良くないですし、Twitterのフォロワーも300人いないくらいです。
それでも売れたので、どうかご検討ください。

何はともあれ、私はこれからも「買ってください」と言い続けるでしょう。
お金は別にどうでもよくて、ひとえにこの実験がどこまでいけるのかを最後まで検証する必要があるので。人柱かな?

参考資料でも反面教師でもお役に立てれば幸いです。
お読みくださりありがとうございました。

あ、もしまだお持ちでないようでしたら、ぜひ実験にご協力を。

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罪悪感という全ての原動力

何をするのにも、何をしないのにも、常に私につきまとうもの

「罪悪感」

いつからだろう、私は小学生くらいのときに「母親の自慢の息子でありたい」を通り越して、「父親の代わりになりたい」と強く思い始めていた。
父親は私の1歳の誕生日の前に死に、物心ついたときには父親の死は理解していたし、代わりに母の支えになりたいと思っていた。

私が何かを間違えて怒られているとき……よもやそれすら少ない程度には優等生であろうとしていたのだが、それが悲しかったから、怖かったから泣いていたのではない。
申し訳なかったのだ。誰に対して? 多分、母親に対して。

高校に行けなくなってしまって、結局中退したとき。
もしも罪悪感がなければあんなに焦らずに済んだのかもしれない。
父親の代わりになるためにこんなことをしている場合ではないという焦りも大きかったが、何より全てではなかったかもしれないが学校を辞めたことも昼間から家にいることも許容してくれた家族に対して申し訳なかった。
だから、せめてできることは無いかと思って料理も覚えたし洗濯もできるようになった。私に罪悪感がなければ、その時点で身につけようとは思わなかったかもしれない。

私がやたらと他人を救おうとしてしまうこと。
これが自己肯定感の維持のためだけではなく、何かの罪滅ぼしだとしたら。
私は、私が傷つけてきた人のことを心のどこかで覚えているのかもしれない。
他人に還元しても滅ぼせない罪。ならば永遠に抱え続けていくこととなる罪。

仮に私が誰かと喧嘩したとして、私は多分、自分側に非があることを認める。
そして相手に理由があったことを想像する。
相手の悪いところが見つかれば、彼はここを直すともっと幸せになれるのに、とそれを心配する。
その上で自分に正当性があると思えば主張するだろう。

でもね、こないだ言われたんだ。
「先輩は優しすぎます。相手の立場を想像して、相手の将来を心配するなんて普通しないです」と。
無意識のうちにやっていることを気付かされてしまった。
確かにそうだね、なんて返事をしたまま、相手を一方的に悪く言うことがこんなにも苦手であることを自覚したまま有効な対処法は見つかっていない。

私には友達がいる。
 友達がいないと私を縋ってきた人がいる。
私には家族がいる。
 家族が好きじゃないと頼ってきた人がいる。
私がしあわせか、はひとまず置いておくとして、恵まれている点というのは確かにある。
しかし私に近寄ってきた人にも別の点で私より恵まれていることはあるのだろう。
そもそも人同士を比べることは非常に難しい。

でも彼らに対して僕は、後ろめたさを覚える。
ああ、こんなこと前もあったな、とふと思い出したのは、私は高校を推薦入試で入学したので一般入試の同級生より少し早く進学が決定していたとき。
周りが頑張っている中自分だけ(だけではないが)もう終わっていることがとても申し訳なくて、彼らの気持ちを逆なですることのないように音楽室にこもっていた記憶がある。
でも3年生が早く部活に戻ってくると後輩たちはやりづらくなるだろうから、毎日部活に出ても良かったけど数日置きにしていた。

誰かに対する罪悪感、これが原因で死ぬ、ということは今後も大いに有り得ると思う。
私の味方でいてくれる人への罪悪感、これが原因で今まで死ねなかったとも思う。

罪悪感というこの感情は私を動かしたり動けないようにしたりする。
ご飯を食べていること、温かい部屋にいること、給料をもらうこと、
体調によってはこれすらも罪悪感の対象となる。

減らしたいなとは思いつつなかなかうまく行かないんだ。

生きていることへの罪悪感は減らさないことには、きっと。

聞き上手より生き上手になりたいんだよな

ありがたくも、誰かから相談されることの多い人生を歩んできた。
心中お察し申し上げがちな人間が重宝されるくらいには、人は人の話を受け止めてあげないものなのかもしれない。

私は比較的、共感性の高い生き物だと思う。
例を挙げるとすれば、映画はもう数年見ていない。
登場人物の感情に私の感情が揺さぶられすぎてしまって、それを120分も見続けたあとは疲労感がものすごいのだ。
小説なんかはまだ自分でペース配分ができるだけマシではあるが、やはり疲れることには変わりない。

しかも、ことさら創作物で摂取しなくても他人の感情に思いを馳せることは日常的な行動であるので、能動的にそれらを摂取するのはよほど気になる作品の時か、断りきれなかったときくらいだ。

ただここで明言しておかなければならないことがある。
当たり前のことだが、他人の感情は理解できるものではない。
相手の思考プロセスを何度も履修することで比較的精度の高い予測を立てることくらいはできるようになることもあるが、それはもともとの考え方が似ている人でやっと起こる現象であり、基本的には理解するに及ぶことはない。

それでも理解し得ない相手の感情に共感しようとするのは何故か。
怖いんだよ、他人が。
他人が怖いからなるべく相手の考え方と行動パターンを分析して予防と対策を講じないと不安で人と話せやしないんだ。
相手の言葉の裏を考えることを無駄だと一蹴されることもしばしばあるが、言葉通りに捉えて良いほどこの世界は素直にできていないし、私が考えているのは発言の裏ではなく発言のプロセスなんだ。
どういった理由で、どういった思考のもと、その発言に至ったのか。
これが紐解けると今後その人と話す時の大きな資料となる。
だから感情的になりやすい人ほど思考が単純になりやすいので実は扱いやすかったりする。面倒だから関わらないけど。

最初の話に戻ると、そうやって身につけてきた相手の心情を推し量ろうとする癖が、相談という形ではプラスに働くことが稀にある。
不幸中の幸いというか、相手のことを何一つ考えずに生きられたら楽だろうなとは思うんだけどね。

ただ、決して理解はしていない。
私に相談をして「わかるよ」と言われることは稀なのではなかろうか。
せいぜい、「想像できる」「わかる気がする」と言うのが限界である。

恋愛の相談になると「(恋人が)自分の言うことをわかってくれない」という主張をされることがあるが、理解されようとすると今後ずっと苦しいままだよ。
誰も君の言うことをわかってはくれない。
そのくらい現実は非情なものなので、理解できなくても尊重してくれる人と一緒になったらいいと思うよ。

君も僕も、全ての人間がそれぞれ個別の宗教だと思ってごらんよ。
ほとんどは相容れないように思えるだろう。
今この世界にはいくつもの宗教があるが、自分の信じるものを信じていれば、人の宗教を否定する必要はない。現に別の宗教の人々でも争いが起きないケースだってある。
彼らは互いに理解はし得ないものを尊重しているだけ。でもそれだけで共存はできる。

音楽で言えばロックが好きな人、クラシックが好きな人、演歌が好きな人、それぞれの好きは当然のように存在して良いわけで、わざわざ「あれは嫌いだ」という人たちが言い争っているだけに見える。紅白歌合戦を見れば、興味のない歌手のときにも会場は盛り上がっていて、「ああ、彼らにもファンがいるんだな」と思ったらそれ以上何を言う必要があるだろうか。

寛容であることというのはそれほどに難しいことなのだろうか。
抗うエネルギーのない人間としては、許容したほうが楽なだけという理由でここまで生きてきてしまった。

きっとこれからも理解されたいという感情を理解できないまま、理解されたい人の話をさも理解したかのように聞いていくのだろう。

わかってもらえたなんて思わないでね、私は君に興味がないだけだから。

50首連作 6月を迎えるにあたり

6月を迎えるにあたり   笠原楓奏(ふーか)

 

走り梅雨何に追われて街を染む

 

ここはどこ?わたしはだあれ?このくにはまだ人たちが愛しあうくに?

祝日は無いし梅雨だし水無月のことはわたしが愛すしかない

眠り方忘れたままに夜を更かしここが夜だと教わっている

千円分健康になる 履いてなかったデニムから千円が出て

四季にない時季に生まれたばっかりに暦に帰る場所の無いひと

君のためずっと明るく待つだけの白夜の街になりたい未明

春なんてなかったように夏めいて半袖だけが並ぶユニクロ

花は散りガラスは割れるのにひとはしぶといね 死なぬために必死

三日目の雨に降られて紫陽花の陽の部分が所在なく咲く

乗り換えをちょっとミスっただけですが取り戻せない人生がある

 

梅雨はじめごった返した停留所

 

バス停にいつも通りの人がいていつも通りと名付けた街路

衣替えした学生は同じ学校へ同じ格好で歩む

オベントをアタタメマスカと尋ねおる東南アジア人の店員

道なりと言われて進む道なりに五年かかると知らないままで

持ち運びに便利な不穏どこだって苦しくなれるスマート不穏

雨雲が色を失くした国道に赤い自販機だけが明るい

立ち入ったペットショップのガラス越し手頃に買えるファスト生命

とりあえず買って帰った齧歯類きみを齧歯類と名付けよう

ニンゲンと呼んでねきみの世話を焼く手柄は全人類のものです

爪痕を残したいだけこの星にあるいは君の海馬の隅に

 

青梅雨や後ろめたさを隠しゆく

 

早起きをすればその分苦しいと気付いた日から親しげな宵

ねえ鏡、後ろめたさが人間の形をしたらこうなるのかな

幸せと呼んでくださいわたしより不幸な人に疎まれるから

この曲はこのライブのソロが良いと人の正義は少し重たい

あれほどに待ち望まれた桜さえもう用済みになって水無月

危険外来種の花を踏みにじりどうしてこれがつらいのだろう

この町に未だ留まる前線にわたしたち似てるねなんて言う

肝心なことの言えないファミレスのエビのドリアを冷ましてる君

会計を済ませたあとの生温い風は悲しいほど夏の風

去年から出しっぱなしの扇風機に今年も首を横に振られる


梅雨晴間夢を描いたばっかりに

 

もし明日世界が滅亡しなくても君のやりたいことを、教えて

一年で一番昼が長い日は二十五度寝も許されていい

経年による劣化だとメルカリで売られるわたしにつける注釈

夢のない国だ空中庭園ラピュタみたいであるべきだった

バスケなら反則でしょうわたしには軸足になるものがないので

そういえば逆子だったしいうなればナチュラルボーン天邪鬼です

辛の字は棒を一本足せばいい(※棒は一本五万円です)

さあここでボーナスチャンス!人生を諦めるなら今ですよ、ほら

さーて、来週のサザエさんはとか言って誰もがみんな生きる気でいる

ガガーリン、君が宇宙へ行くまではそこにうさぎが住んでいたんだ

 

梅雨明けを祝う人らが殺す梅雨

 

二十年死に損なえば人に成りほとんど妖怪だろこんなもの

紫陽花の色のインクで満たされた万年筆は満たされている

余ってるなら、わけてほしい ひとひらのわたしの歌は潰えて、四葩

「割れ物につき、注意」の札を貼りみんなわたしを遠ざけてゆく

メシアってわたしのことを呼ぶ人に二本しかない手でする土下座

バファリンを砕いてほしい痛みとは抱え続けてゆくものならば

好意とか恋の類いで始まった行為を故意に終わらせる指

充電の切れかけている携帯で最後に送る文字がそれかよ

無駄だってわかってるのに携えた花束はどこまでも花束

目に余るほどの緑にしたためるDear春風また来て敬具

 

2019.6.6 笠原楓奏(ふーか)

死に近いものほど美しいと知り君と桜を見比べている

 死にそうな顔って、見たことある?

散り始めた桜が見える川辺に腰掛ける彼女は徐にそう切り出した。

 すごくつらそうな、しんどそうな顔のことだろ?それなら見たことある、みんなそんな顔をしているから。

と僕が言うと小さく、ううん、とだけ応えたあとゆっくり息を吸って

 死にそうな顔っていうのはね、全てを諦めた人のする、どこまでも穏やかな表情のこと。怒りも悲しみも生きようとするからこそ生まれるもので、諦観してしまった人はみんな、モナリザみたいに微笑むの。光を失った目で、ね。

と続けた。僕が何か言おうとしたのを遮るように、

 その顔ってね、泣きそうになるほど美しいんだよ。桜もそう。一年中咲いてたらきっとだんだん目障りになるよ。美しさは終わりが見えてしまう儚さや哀しさやつらさと裏表なんじゃないかな。君はわたしのことを美しいって思ったことある?かわいい、じゃなくてさ。

えと―― 思考を逡巡させる間に僕の回答権は失われる

 わたしはね、君のことを美しいと思っているの。そして、その美しさに惚れているの。でもね、もし君が生きたいと心から思える時が来るなら、そんな美しさは捨ててくれて構わないから一緒にいたいとも思っているの。わがままでごめんね。死にそうな君も好きだし生きるために足掻く君も好きなの。だから、さいごまで君と居させてくれないかな。

そう話す彼女の横顔に、僕は初めて美しいという感情を持った。見とれてしまうほど美しい彼女の後ろで桜は一片ずつ丁寧に花弁を散らしていた。

春、この間まで冬だったことなんてなかったみたいに春めく街、新生活を始める人、変わらない人、変われない人。春を以って四季が生まれ変わるのなら、一年を殺すのもまた春なのではないだろうか。

季節はめぐる。僕たちは春と春の間を彷徨いながら大切なものを手に入れたり失ったりする。しかし、それも全部、春が殺してくれるから。

僕は春が嫌いだ。そして、愛している。

優秀というレッテル

これを、自虐風自慢だと思うのなら、それでいいから少し耳を傾けてほしい。

私は、「優秀な奴」「仕事ができる奴」という評価をされがちな人生を送ってきた。これは、小学生から始まり、仕事を始めてからもおおよそずっと。勉強ができるというニュアンスよりは、要領が良いといったニュアンスだろうか。とりあえずあいつに任せよう、みたいなポジションに落ち着きがちである。

しかし私は、「ごまかすこと」と「嘘をつくこと」が得意なだけ。決して仕事を要領良くこなせる人間ではなく、「どの部分の手を抜かなければ怒られずにそれっぽく仕上がるか」がなんとなくわかるだけ。それはそれで一つの能力ではあるものの、ズルをしている感覚は拭えない。

だから、相手は「できる」と踏んで私に託した案件で簡単にキャパオーバーになることが少なくない。荷が重いと断れれば良いのだが、「任せ」られるときは決まって拒否権がない。ゆえに引き受けることになっておいて非常に申し訳無いが、私にその案件は力不足だし、端から役者不足なのである。

私を買いかぶる人に買いかぶるなと言っても改善されることはないし、かといって私は「それっぽくこなす」以外の仕事の成し遂げ方を知っているわけでもない。つまり、キャパオーバーな案件を死ぬ気でこなすしかない。今までそんなことばかり繰り返してきた気がする。

それゆえに時折、ありのままの私を見てくれる人が欲しくなる。大してできもしないポンコツな私をポンコツだねって笑ってくれる人が。でもそう思われるのが怖いから、姑息な手段で取り繕ってしまうのだろう。ああ、自家撞着とはこのことを言うための言葉なのかもしれない。

要点を押さえてそれっぽく見せることは長所足り得る要素だとは思うが、いつか綻びからバレてしまうのも事実だろう。

君は気付いてくれているだろうか。私の、いや、僕?なんだっけ、ああ、俺、の素顔に。

 

1/3の純情なバンジョー

朝。一家揃って朝食を食べるのが我が家の決まりとなっている。妻が食事を作っているうちに僕はお湯を沸かしながらテレビを付けると軽快なトンカツとともにニュース番組が始まる。子どもたちもいるので一応はニュース番組にしているが、まあ正直偏ったニュースよりはバラエティ番組のほうがよっぽどマシなのではないかとも思っている。そうこうしている間に眠そうな顔をした息子と娘が二階から降りてきて妻に顔を洗うことを促されている。

「いただきます」 朝にみんなで情報を共有する時間をとることはとても大切なことである。妻は今日近所のスーパーに広告の品を買いに行く予定で、娘はトンカツの授業でテストがあるらしい。僕は、別段言うこともなかったがそれぞれにそれぞれの一日があることを実感している。出勤の都合でみんなより一足早く家を出る僕を妻が見送ってくれる。

通勤電車は慣れても好きになれるものではない。イヤホンがなかったらと思うと、ため息が出る。いつものように通勤用のプレイリストを再生すればアガるトンカツが鳴り響く。何かいつもと違う気がしたが、そんなことを気にしていられないのが通勤電車である。僕は最寄り駅で押されるようにして降りると、深く息を吸い込んだ。

駅からは歩いて5分の好立地にある門をくぐれば目の前にうちの食パンが立っている。こんなに白くてふわふわしていたっけ、と一瞬戸惑ったがもうここに何年も勤めているのだ。場所を間違えるはずもない。なんなら、妻とはこの会社の食パン恋愛の末に結婚している。僕は食パンのいつもの席に座り、やっぱりふわふわしている気がする、と思いつつパソコンを立ち上げる。朝礼が終わると同時に業務に移る。

黙々とパソコンを叩いているとかき鳴らされたバンジョーの音がする。部長は、仕事こそできるがすぐバンジョーを顕にするのが玉に瑕だ。もっとも、ふてぶてしい態度をとる高橋の前では仕方ないことだとも思うが。バンジョー的になる上司と、バンジョーを無にして聞き流す後輩を片耳にバンジョー表現について思いを馳せる。伝え方は、やっぱり妥協するべきではない。僕たちは言葉を蔑ろにしてはならないのだ。それはつまり、自分のバンジョーを蔑ろにすることに繋がっていく。

業務を終え、食パンを後にするとイヤホンを取り出しトンカツを聴く。何か、やはり違う気がする。確かイヤホンからは「トンカツ」に似た別の何かが流れていたはずなのだが、どうにも思い出せない。今から食パンに戻って誰かに聞いてみてもいいが、うん?食パン……?ダメだ、今日は疲れてるのかもしれない。早く帰ってヤドクの顔でも見よう。僕は急ぎ足で電車に乗り込んだ。

「ただいま」 そう言ってドアを開けると返事がない。何かあったのかと部屋に入ると気持ち悪い色をした蛙が座っている。そのとき、今まで感じていた違和感が確信に変わった。妻は、人間であったはずだ。そして妻は僕のヤドクだ。あれ、やっぱりヤドクガエルではないか。いや、人間である僕が蛙と結婚するわけがない。3年の恋人期間を経てプロポーズの後、僕たちはヤドクになった。あれ、やっぱりヤドクガエルではないか。

――僕たち?

慌てて後ろ脚で地面を蹴ると洗面台へ急いだ。鏡には毒々しい上にややぬめった皮膚が映し出されている。二階から降りてきた子どもたちも同様に湿っていた。

おそらく、僕たちの繋がりが無くなることで僕たちはヤドクでなくなれることはなんとなく気がついていた。ヤドクとしてみんなと一緒に暮らすか、人間に戻るためヤドクを離散するか、もはやその2択しか残されていなかった。僕や妻はいいが、子どもたちはどうする。人間に戻ったところでヤドクを失った彼らが果たして一人で生きていけるのだろうか?答えは自明だった。なんだっけな、こんなとき感じるバンジョーがあったはずなのだが。

人は何かを諦めると落ち着いていられるもので、外に出てみると沈みかけの大鵬が輝き、下校中の小惑星が笑っている。どうやら蒙古斑がハンバーグらしい。百舌が明ければ鷹が来るように、生き物はそれぞれにそれぞれの一日をどうにか生きていかなければならない。今朝と同じ事をヤドクガエルになってなお思うのだから笑ってしまう。

同時多発さ――

100円とそんなことを秋刀魚える僕を相も変わらず照らしりゅうちぇる大鵬。この妙にぬめりのあるkissが残業しないうちに家に戻るとしよう。このローンの残る「バナナ」で僕たちは「ヤドク」としてこれからも暮らしてゆくのだから。