めーぷるしろっくさん「Replay Reverse and Rebirth」評

 人の死なない話をしようの著者が誰かが亡くなる連作への評をするのはいかがなものかとも思わなくもないが、このリアリティは涙腺に働きかけてくる手触りのあるものだったため評することを余儀なくされているのであった。

 めーぷるしろっくさん作「Replay Reverse and Rebirth」では「あなた」が亡くなっていることが読んでいてわかる構造となっている。擦り切れるほどに「あなた」と「あなた」のいない世界を詠んだ歌が16首で構成されている。

 以下は作中から好きな歌を五首引用したものである。

 

再生 を押せばあなたがそこにいて世界に音があってよかった

 

 再生は本来Rebirthの意味の言葉であっただろうが、動画媒体の普及によりいわゆる再生ボタン(Replay)のときのように気軽に使われる言葉となった。この歌の中で「再生」ははじめ、後者の意味で登場するが最後まで読み終えるとRebirthだったらどれだけ良かったかと思い知らされる形となっている。写真でも故人を思い出すことはできるだろうが、「そこに」いるくらいの再現度で想像できることを聴覚に委ねている点が音、及び声という唯一無二のものの重要さと、人間が声を記憶することの弱さを明らかにしているように感じた。世界に音があってよかったと私も思う。

 

神なんて信じていない 人間の間引きがあまりにも下手すぎる

 

 死を神による間引きとまで冷徹に表現しながらも、間引かれるべきでなかった人が間引かれてしまったことへ、信じないことで抵抗するひとりの人間らしさが切実な一首。

 死んでいい人などいないという前提に立てば、逆に多分間引きは平等で、上手く行われているのかもしれない。けれど、それを下手すぎると言いたいほど、喪われてはならないものが喪われてしまった。それはおそらくその人にどれだけの能力があったかではなく、作中主体にとってどれほど大切な存在だったかだけで語られているのだろう。つまりは極端な主観に基づいて詠まれた歌であるが、それだからこそこの歌が人の心へ刺さるのではないだろうか。

 

刻々とタイムリミット 三つ上だったあなたを追い越すまでの

 

 倒置法および「刻々とタイムリミット」の二句切れが、そのことの深刻さを上手く想起させているように感じた。内容としては平易でもある歌だが、「刻々とタイムリミット」と言われると何故か私まで焦ってくる気がする。約三年のうち、あとどれだけの時間が残されているのかわからないが、そしてタイムリミットを迎えた後どうなるのかもわからないが、作中主体にとって大きな地点であることは確かなのだろう。

 

生きられることが悲しい 君のいない場所でも息はできるんだなあ

 

 先の歌の隣に置かれていた一首。連続して読むとより先の歌の評価が上がるように思える。生きることは息をすることである、これは私も詠んだことがある調べだが、実際語源の上で関連性があるらしい。何が良いって最後の「だなあ」である。感情の吐露は連作中で随所に垣間見られるが中でも一番感情的であるというか、もはや短歌の体裁に則ることよりも思っていることが先行しているところが最高に虚しい作中主体の感情を顕にしている。一番短歌的ではないが、連作の上でこの一首は必要だったように感じる。生きられちゃうんだよね、なぜだか。

 

遠ざかる背中がぼやけないように見開いたまま涙を落とす

 

 連作の最後に置かれている歌であり、ここまで読んできた読者を泣かせる一首である。私はちゃんと泣きかけた。四句、「目を開けたまま」などを置くことも可能だが「見開いたまま」の強さがこの歌の覚悟を形作っているように思える。故人の背中を必死で刮目する主体から出る涙は、零れるのではなく落ちるのだろうと納得がいく。しかも「涙が落ちる」ではなく「涙を落とす」のである。他動詞の「落とす」を用いたことで涙さえも能動的に落として、背中を見続けるんだというような主体による故人への働きかけが加速する。そこまでして見なければならない「遠ざかる背中」はさぞ尊いものだろう。そして、絶対に忘れることのない、いや、できないものなのだろう。