常井かきくけこさん「遡光」評

軽い胃腸炎でお仕事を休んでいるので、1年以上更新していなかったはてなブログを動かしています。
今回は、ネットプリントで配信されてからずっと書きたかった、常井かきくけこさんの笹井賞応募50首連作「遡光」から気になった歌をピックアップしたいと思います。

先に読みたい方は、noteで公開されているのでぜひそちらをご覧ください。

遡光|きつねこプロジェクト|note

余談ですが常井かきくけこ(きつねこプロジェクト)と私は同い年であり、それゆえに上手いことされた日にゃめっちゃ悔しくなったりもするのですが、良い作品には素直に良いと言いたいので今回簡単にですが評を認めることにしました。
では、本編へ。

 

生に背を向けて留まるホームぎわ快速電車が底冷えを切る

この連作の1首目に置かれている歌。この歌からこの「遡光」は始まる。
駅のホームで線路側に向かって立つこと(要は普通に待ってる状態)を「生に背を向け」と表現されると、途端に深刻な状況へと場面が豹変する。確かに線路側には死が待っているし、後ろ側が安全な場所であり、電車を待つあたり(ホームぎわ)は生と死の境目という捉え方もできるだろう。
冬か冬のように冷え込んだ日、その寒さを切るように走る快速電車は主体にとって「道具」の一つなのかもしれない。今日は身を投げるわけではないが、いざとなればいつでも自死できる空間がそこにはあるんだと、ひりひりした感情がここからは確かに感じられる。

番号で呼ばれる曜日 死にたさは言葉にしても希釈されない

病院か、薬局かなあ、と思った。病院はむしろ名前で呼ばれる気がしたので、診察で死にたい旨を伝えて、「お薬出しときますね〜」で終わって、薬局で番号札を持っているときの、何も浮かばれなかったなという感覚だろうか。そうだとしたら心当たりがある。
死にたいと言葉にすることでその感情が薄まれば楽かもしれないが、作中主体はそうではないようだ。希釈の定義について調べてみると、あるものに何かを足して薄める(割る)ことによって濃度を調整すること、とある。つまり何かを減らして濃度を薄めることではないのだ。ここで「希釈」という単語を選んだのが意図的だと解釈すると、死にたさ以外の感情がなにもなく、いくら死にたいと言葉にしても他の何かがなければ希釈はされない。それだけ主体の感情が希死念慮に支配されていることが窺える。
また、番号で呼ばれる曜日、という2句切れは場面の描き方として秀逸だと思った。

元気か、と訊かれて身体は、とだけ返す つく嘘は少ない方がいい

会話文を引用した形ではあるが下手に鉤括弧を使っていないところに好感を覚えた。それが会話だとわかる場合はあえて付けなくても良いと、個人的には思っている。
身体も元気じゃないかもしれないんだよね、それでも心身ともに元気と答えるよりはつく嘘が半分になる。そういう、生きる上での罪悪感を減らしつつ、過度に心配をさせないコツのようなものを覚えていってしまっていることは良いことと思うべきだろうか。それとも。

溺れつつ手を伸ばしたらそこにいた、みたいに君から写真が届く

ふたりでもいつか行きたい君からの景色も今は遠くのひかり

連続した2首を引用した。ここはおそらく景色が連続している光景だと思う。
12首目で初めて現れる「君」という存在。主体にとって君は大切な存在であろうことを受け取ることができる。写真が送られてきて、それを救いに感じるほど。ただ、その君とでさえも今は一緒に出かけることはできない主体を「景色も今は遠くのひかり」として表現している。「いつか」と「今は」はどちらかでも意味は通るが、両方書くことによって未来と現在の対比の構造を上手く作れていると感じた。文字の無駄遣いにはなっていない点が高評価である。

逆光のなかで目を見る(また明日)息は出ていてそれでよかった

連作のちょうど真ん中くらいに出てくる「逆光」という言葉。これはタイトルの「遡光」との対比なのではないだろうか。「遡光」はそもそも造語のようで、辞書にはない言葉だが、遡には(さかのぼ)るという読みがあるように、流れに逆行するような意味がある。
対して逆光は被写体の後ろから陽が差している状態。つまり主体から見れば正面に太陽が出ている光景になる。これは推測の余地を出ないが、遡光とは自分の後ろで、自分の後ろに向かって放たれている光なのではないだろうか。主体は影すらできず、闇の中である。
これはもう少し時間をかけて考えた方が良い部分だが、とりあえず初読の感想として考えたこととしてはそんな感じである。
歌意についてだが、夕方の傾いた陽を想像した。誰かとの別れ際ではないだろうか、目というのはその人の目だと思った。また明日がパーレンに包まれているので、おそらくこれは言葉になっていないのだろう、息は出ていて、とあるから言いかけてやめたのかもしれない。いずれにしても「それでよかった」によって少し平穏な雰囲気が出ている。短歌の中で「よかった」という感想文の定番ワードを使うのは上手く使わないといけないのだが、これは機能しているね。良い。

そして、この歌と、次の歌の間に一行分のスペースが生まれている。また、それ以降の歌では一人称が「私」二人称が「あなた」それから「恋人」という単語が出てくる。
つまり作中主体が当初の人間から別の人間に変わったことが示されている。そしておそらくその新たな主体は前半で「君」と呼ばれていた人物なのではないだろうか。

鬱病の恋人と暮らす新たな主体のやさしさが滲み出る後半からはこちらの歌を引用したいと思う。

穏やかな夢だといいねハルシオン恋人のみる世界に愛を

ハルシオンとは睡眠導入剤の一種である。ある種枕詞のように3句に置かれているが、恋人の服用している薬を知っているというのはかなり親しいというか、理解のある人間なのだと思う。恋人のみる世界、とはつまり夢の世界であり、視認しているわけではないからひらがなで表記されているのかなと思った。
また

人混みを避けてのどかな帰り道増えた薬の名前を聞いた

という後に出てくる歌からもその関係性は窺うことができる。
この歌も淡々とはしているが結構深さのある歌で、非常に好みである。

薬にもお医者さんにも治せないかなしみは比喩になどできない

かなしみはかなしみとしか言いようがないんだろうな。短歌において比喩は表現技法の一種であるが、この歌はそれへのメタにも感じる。すごく捻くれた解釈をすると、比喩にして表現できるかなしみや死にたさは自分のそれより遥かにマシで、ここまで絶望すると比喩なんてしてる場合じゃないんだ、と言っているようにも感じる。それは私の性格が悪いからであって、そこまでのことを筆者が言いたかったわけではないだろうが。
でもそんな切実さと悪あがき感のある歌だなとは思った。

また明日、朝陽のなかで不器用に笑ったようなあなたの遡光

これが50首目の短歌である。
遡光、さっき述べた解釈は間違っていたかもしれないね。
これ、「ような」がどこまでを受けてるのかが肝で、「不器用に笑ったような(笑ってない)」なのか「朝陽のなかで不器用に笑ったような(朝陽のなかでもなく笑ってもいない)」のか。また、「また明日」は実際に言っているのかどうか、誰が言っているのか、言っているとして、朝陽(明日から比較的遠い時間)なのはなぜなのか、そしてそれら全てを解釈した上で、遡光とは何であるのか。これは難しいお話になりそうだ。
少なくとも主体から見た「あなた」は明るかったのではないかなとは思う。遡光がどういう意味であるかはさておいて、ね。

という観点からちょっと謎めいた終わり方をする連作にはなっていて、それがどう評価されるかはわからない。前半と後半で主体が変わる構造も露骨すぎなくもないかなとはやや思うのと、好きな歌が前半に固まっていたので作風自体がブレている可能性もなくはない。
それを差し置いても良い連作だとは思ったよ。読ませてくれてありがとう。

 

 

ここからは余談であるが、私は短歌の評を書くことは少ない。疲れるんですよね、感情移入してしまうので。でも書いたら書けるし、リアルの歌会で、ふーかさんの評が参考になりましたと言ってくださった方も過去にはいたので、それなりには書けているのだと思う。
私は短歌は読まずに詠むだけのスタイルを貫いてきたので、歌集もほとんど読まないのだが、そんな解像度でも評は書けないわけじゃないので(多分、本歌取りとかには気付けないんだけど)、みんなも好きなものには好きと言ったら良いと思うよ。
短歌作家として、あるいは音楽家として活動していて思うのは、「陰ながら応援」されても実はあまり応援になっていないということ。RTしたり、人に口コミで広めてくれたり、そういう応援の仕方の方が何倍もうれしいしありがたいということ。

だからみんなも率先して応援してほしいなと思う。

 

それでは、ここまでお読みくださりありがとうございました。