死にたがりファンファーレ

 帰り道、ひたすら死ぬことだけを考えていた。どの手段なら今から死ねるか、かつ理想的な死に方ができるか。そんなことを考え歩いているといつの間にか家へたどり着いてしまっていた。ビルのある街から電車に乗ってきた。いくらでも死ぬチャンスはあったのに、むざむざ家へ帰ってきてしまった私は、脳内の希死念慮をこうして文字にしている。

   死に方を考えたのち死に場所を考えたのちたどり着く家

 そういえば先日「うたの日」で「死」がお題だった日があって賑わっていたことを思い出す。やっぱり生き死には歌にしやすいんだなって改めて思った。そりゃそうだよね、みんなやがて死ぬんだもんね。でも、私はその部屋に出詠できなかった。死は私にとって最も身近で最もセンシティブなテーマだから、いくらでも詠める。しかし、詠めと言われて詠むことは到底できなかったのだ。

   人は皆死ぬって事を忘れてる奴から順に生き延びている

 自分がいつから死にたがっていたのか、記憶がある人はあまりいないだろう。ちなみに私は幼稚園のとき、ふと死にたいと呟いては隣にいた友達、幌輝君に「先生、ふーかくんが死にたいって言ってます」とチクられていた記憶がある。あれは多分年長さんの頃だろうか。

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 でも恐らくそれは厭世観から来る死にたさではなく、亡くなった父に会いたかった、ただそれだけのことだと思う。というか、その頃からこの世に嫌気が差していたのなら私は世界に適正が無さすぎるので、そう思うのは流石に堪えるものがある。

   俺の死は星6モンスターのため捧ぐ生贄にすらなれない

 俺はどうしたらいいんだろうな。もうだいぶわからなくなっている。生きていればいいことがあるらしい。それはそうだと思う。しかしそれは同時に悪いことも起こるという事実を内包している。止まない雨はないらしい。それはもっともなことである。しかし雨の降らない月もないだろう。

 今死んだら。今後悪いことも良いことも起こらなくなる。現状の良し悪しの差し引きでこのゲームは投了となる。今後勝ち続けるかもしれないし負け続けるかもしれない賭けを、妥協できる今のスコアで終わらせるのは、そんなに悪いことなのだろうか?

   もし仮に止まない雨が無いのなら泣かない日々もないはずだろう

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 どうしてみんな生きていられるの?なんて生きている俺が聞く滑稽さは置いておいて、本当にそれは教えてほしい。何が君を生かしているのかを。

   俺なんて生まれちまった慣性で生きているだけだっていうのに

 わかっていたことだが死については筆が進みまくるのが自分でもおかしくて笑いそうになっている。言葉にすることで救われる感情はやはりあるのだろう。死にたくなるたびに死にたいという旨の歌を詠み、私はどこまで行けるのかな。