友達になろうよ そして僕が死ぬときは誰より涙してくれ

私は友達が少ない。

と言っても全くいないわけではないが学生時代の友人が次第に減っていく一方なのは間違いない。

減っていく?

誰一人――いや、一人を除いて――死んではいないはずだし仲違いしたわけでもないのにお互いの環境が変わったことで疎遠になった人を「友達」と呼んでいいのかわからない自分がいる。あたかもいなくなるような表現をしているが、大半は会おうと思えば会える人々だ。

友達が友達でなくなる瞬間とは?

私たちは誰かと打ち解けると自分の心の中にその人の居場所を作る。その人の居場所があるうちは、会って話そうと思ったり旅先のお土産屋で思い出したりする。しかし、人が生きていくにおいて、関わりの薄い人に心のキャパシティを割けるほどこの世界は穏やかでない。会わない期間が長くなるほど、その人の居場所は他の何かに侵食されていく。そしてやがてはそのスペースが無くなってしまったり無くならなくても本当に狭い空間しか残ってない状態になる。きっかけがあれば思い出すかもしれないし、全く思い出さないかもしれない。それはどれだけのキャパを割いてどれだけ一緒にいたかによるのだろう。

限りなく分かり合えた同級生も、散々相談に乗った後輩も、関わりが無くなればお互いの心に居場所が無くなる。築いた友情は保存されたままでも「友達」と呼ぶのを躊躇う距離感になる。これはあれだな、そこそこやりこんだスマホゲームをアンインストールしたときに似ている。データはバックアップしてあるから、やる気になればいつでもそのデータで始められるのにね。この例えで言うなら、データごと消したらそれは友達でない状態。アプリが端末の中にあれば友達と呼べる状態。そして今は、どちらとも呼べない状態。それを便宜上、友達が減っただとかいないだとか呼んでしまうのは、もう戻れないと内心分かっているからだろうか。

減るなら増やせばいいのでは?

尤もな意見には違いないんだけどさ、大人になってからの友達ってどうやって作ればいいんだろうな。共通の趣味で知り合えばそりゃあ話も弾んだりするわけだけど放課後に誰かの家に集まってスマブラをするみたいな温度がないんだよな。ああいう友達ってもうできないのかな。試行錯誤の末に完成したデッキを戦わせたりベイブレードで競い合うことはもうできないのかな。仕事や家族やセックスの話を延々とすることに楽しさを見出せない私はまだ子供なのかな。

結局、大人同士が繋がるときってそこに何らかのメリットが生じていて、その関係性がwin-winのとき「友達」と呼んでお互いを利用しあうだけなんじゃない?と思ってしまう。これは流石にひねくれすぎている考えだと我ながら思うけど、自己肯定感が著しく低い私は「私と話すメリット」なんてものは0だと思っているので、仲良くされると何の意図を以って近寄っているのか警戒してしまう。単に私と話すのが楽しいと言われれば、いやいやいやいや…...と萎縮する日々。そのうちに「せっかく私と話してくれるのだから何かメリットを作らなければ」という焦りに駆られ、笑わせようとかためになる話をしようとか思いつめ始め、「失敗が許されない会話」と化したやり取りに疲弊してしまう。

そんな私にも関わらず友達になろうとしてくれる方々には非常に申し訳ない気持ちでいっぱいだけど、何も難しいことは考えず素直な気持ちで話せる日がきっと来るはずなので。そしたら、仲良くさせてください。

来世かもしれないけど。