七夕という概念

病院のロビーに、小さな笹があった。

そこには思い思いの願い事が書かれた短冊がぶら下がっていて、隣には誰でも書けるように、白紙の短冊と、明らかに事務室から持ってきたであろうボールペンが半ば無造作に置かれている。

考えてみれば、紙や木の皮を細長く切ったものを短冊と呼ぶことは知っているし、俳句や短歌を書くものとしては未だに使われていることも知っているが、一般的な人にとって短冊とは七夕の時くらいでしか見かけない謎の形式なのではないだろうか。絵馬と同じくらいよくわからない形をしている。

まあでも短冊切りに名前が残ってる分、短冊の勝ちかな――

よくわからない理論を展開しながら何気なく短冊を眺めてみる。病院という場所柄もありお年寄りが書いたであろう「腰の痛みが取れますように」「長生きできますように」と言った願いが多数を占め、2枚ほどあどけない文字で「おばあちゃんがよくなりますように」と書かれた短冊も確認することができた。「お願い事」には違いないものの明らかに学校や駅にある笹より背負っている願いが重い。この笹のサイズでは受け止めきれないのでは、と思わなくもないが冷静に考えれば笹の大きさで願いの叶う確率や届く速度が変わってくるわけではないので問題はないのだが、それでもうな垂れている笹からはいささか力不足を感じざるを得なかった。

あんまりじっくり見ていたからか、君も書いたらいい、とご老人に話しかけられる。

ええ、そうします。

他愛のない返事でやりすごす。先ほどの話にはなるが例えば彦星たちの目になるべく留まるように大きな笹を用意するだとかそういった能動性もなく、願い事がどういうルートで彼らの元に届くのか、何故彼らは人々の願いを叶えるのか、など七夕には曖昧な部分が多い。それゆえに「どうせ叶うことはないとわかっていつつも、もしかしたら」というすごく儚い感情が垣間見えてしまって、特に病の回復を願うような短冊には胸を締め付けられてしまう。決して、叶うわけないのに、なんて否定的な感情ではなく、人の、人間の、すごく中心の方にある、切なる欲求が感じられて、複雑な心境になる。

私はあまり神頼みをしない方である。キルケゴールの言った「祈りは神を変えない。祈る人を変えるのだ」という言葉にある通り、結局は神に頼ることで自分がどう変われるか、が全てだと考えている。だから物心ついてからは短冊に自分に関する願いを書いていない。そして、ここ数年は変わらず同じ願い事を書くことにしている。これに関しては、叶うことを本気で願っている。世界平和は、ちょっとまだ難しそうだし。

例年同様の願いを書いた少し場違いな気もする短冊を、目立たない位置にぶら下げる。自分の幸せを願える人間になれるのは、まだ先のことかもしれないな。空調にわずかに揺れる短冊を背に、私は歩き出す。

 

「彦星と織姫が許されますように――」

 

この願いがいつか叶うと信じて。