六月

来る6月6日――

みなさんは6月6日と聞いて何を思い浮かべるでしょうか。5月5日は子どもの日、7月7日は七夕。その間の6月6日は二十四節気では芒種、と呼ばれ太陽の黄経が75度になります。

また、マネが「画家の中の画家」と呼んだベラスケスの誕生日として絵が好きな方にとってはお馴染みでしょうし、エヴゲーニイ・オネーギンを記しロシア近代文学の嚆矢と呼ばれる詩人プーシキンの誕生日としても有名ですね。ブラウン管を発明したブラウンや剣の舞を作曲したハチャトゥリアンの誕生日という情報は言わずもがなですが、加えて第二次世界大戦でノルマンディー上陸作戦が決行された日でもあり、初代中華民国大総統である袁世凱の命日でもあります。ああ、あと忘れちゃいけないスウェーデン建国記念日

日本では6歳の6月6日に芸事を始めると上達するという習わしから「楽器の日」と定められています。

と、まあ、思いつく限りでこれくらいのことが書ける程度には、6月6日は私にとって思い入れのある日です。

 

そう、私はまた一つ、歳を取ってしまいます。いつからでしょうね、歳を取ることを素直に喜べなくなったのは。歩みを止め、他の人々が前に進むのを眺めながらときに生きるか死ぬかの境目をふらついているここ数年の私にとって、誕生日は正直、キツいイベントです。祝われることにすら罪悪感を覚える気持ちを理解してくださる方がいらっしゃるのかはわかりませんが、何もできなかった一年が数字として刻まれる感覚は、絶望を容易く呼び起こします。

生に執着してるわけでなく、死ねなかったから、あるいは、生まれてしまったから惰性で生きているだけ。それでも、心のどこかで、死ぬよりはマシと思いたい自分がいる。だから、もし。もし良かったら、「おめでとう」と言ってあげてください。

たとえ罪悪感を覚えようとも、それが生きていくということなので。私という存在が消えてなくなる前に、人の幸せを祝える人がいるということを、忘れたくはないので。