センターマイクのない此処で

「いい加減にしろ」

「「どうもありがとうございました~」」

まばらな拍手を背に舞台上手へはける。俺たちの出番はこれで終わり。これは今日明日の出番ではなく今後ずっとを見据えた上での「終わり」である。理由は簡単、鳴かず飛ばずの芸人を応援する親なんてこの世には一握りしかいないんだ。このコンビは今日付けで解散することが決まっている。もっとも、相方は他の誰かと漫才を続けるらしいが。

全うに生きたらどうなんだ。親父にそう言われてから相方に内緒でしていた就活も実を結び一般企業に勤めることになった俺は舞台では避けてきた地味な色のネクタイを締めている。全うに生きるとはどういうことなのか未だにわからないでいるが、この色のネクタイを締める方の人生に転換できたことは事実なのだろう。

会社に着き、新入社員の俺は朝礼で自己紹介をする。今まで何千回としてきた自己紹介だ。もちろん何の緊張も無かったが、こうやって本名を名乗ることが妙にむず痒いのもまた事実であった。俺が俺として認知されている。それが怖くないと言えば嘘になる。この名前での失敗は俺自身の失敗。もう芸名に責任を転嫁させることはできないのだ。そんな俺の決意めいた自己紹介に上司の、元お笑い芸人だそうだ、という余計な一言が水を差す。何か面白いことやってよ!のような一つも面白くないフリをしてくる人がいなかったのは救いだが、ツッコミであった俺にできることなどろくに無い。期待されるだけ損なので言わずにいようと思っていたのだが。

簡単に仕事の説明を受けている最中、少し離れたデスクで誰かが叱られている声が聞こえた。横目で見ると比較的若い男性である。年齢からしていわゆるゆとり世代だろうか。ゆとり世代だから怒られているわけではないことは聡明な皆さんならご存知だろうが、このように名前も知らない人間を世代や性別などの見える情報から一括りにしてしまうことの楽さに自分も溺れていることに気が付き、少し反省した。

「何度言ったらわかるんだ」

だんだんと叱っている上司の語気が荒くなっていく。高橋はいつもこうなんですよ、と隣にいた先輩は教えてくれたが、そんなことはどうでもよかった。

「どうしてこんなこともできないんだ」

一つの不安が頭を過ぎる。

「いい加減にしろ!」

ああ、ついに訪れてしまった。昔から強い信念みたいなものは無い俺だったが、誰かに笑ってほしい、その気持ちで漫才をしていたことは間違いない。そして、その俺の――俺だけでなく多くのツッコミの――代名詞とも言えるセリフが「いい加減にしろ」なのである。この一言によって漫才は落ち、お客さんから拍手をもらうことができる。逆にこれを言わない限り永遠と漫才をする羽目になる、文字通りのキーワードなのだ。だから、笑いにならない「いい加減にしろ」はとても悲しい。その一言で誰かを笑顔にできたかもしれないのに、なぜつらい顔をさせるために使ってしまうのか。

反射的に席を立った俺は大きな声で「どうもありがとうございました~」と叫ぶ。周囲のきょとんとした目線など舞台でスベったときに比べれば屁でもない。そんなことより俺にしかできないことをするべきなんだ。

「すいません、職業病で」

 

この件以来俺が元お笑い芸人であることは他の部署の人まで知る周知の事実になってしまった。まあ、一度お笑いに身を投げてしまった以上、残された人生の選択肢なんてこんなものばかりなのだろう、などと考えつつ昼食を食べていると若い男性が話しかけてくる。確か、高橋と先輩は言っていたか。

「ねえ、何か面白いことやってよ!」

――そういうところだよ、君。