生きる意味と死ぬ意味

生きる意味なんて、死に際に「生きた意味」として確定するものであって、生きている最中に自覚できることではないと思っているの。
結果論でしか語れないのよね。

逆に、どのようにして死ぬかについては生きているうちにある程度操作できるんじゃないかな、と思う。
何かへの抗議の意味を込めて自死を選んだ人は数週間、世間を賑わせるだろうし、誰かに虐げられていたなら、虐げていた人に一生の枷を背負わせられるかもしれない。

私は賭け事が苦手なので、不確定な生きる意味に期待するよりも、予想ができる死ぬ意味を選びたいと思ってしまう。
まだ若者と括られる今のうちに、しかも将来有望な可能性を残して死ぬことに、何かしらの意味を持たせることは難しくないだろう。

将来有望な若者が、全うな社会人となり、良い歳のとり方をして、尊敬されるような中高年になる……この経路のどこで躓くかわからないなら、今が一番旬なんじゃないかなって、思ってしまうんだよね。

ごめんね、正直なところ、生きていきたいとはまだ思えていない。
死ぬイベントが発生しなかっただけで、能動的に生きたい理由は見つかっていない。

いつか、生きたいと思う日が来るだろうと思い続けて今に至るのだけど、その日が来るかはわからない。
私の父は事故で死んでしまったのだけど、話によると、ずっと「いつ死んでもいい」という生き方をしてきたそうだ。実際にそう口にしていたらしい。
ところが私が生まれると、今は死ねないと、考えが変わったという。
その後、彼は事故に遭うので全く人生というものは理不尽だ。

死ぬことについて真面目に考えている。
私も、いつ死んでもいい、悔いのない生き方をしてきた。
今になって思うのは、それって毎回自分のことは顧みず全力を費やしてきたということで、都度一文無しになっているということ。
一見かっこいいようにも思えるが、生きてしまったときのことを考えていない愚か者でもある。

ただ……今死ぬと、ちょっとだけ惜しいかな。
もう少ししたら何かを成し遂げられそうな気もするので。
種まきをしたいくつかのことたちが、花を咲かせるまでは別に見届けなくていいけど発芽するかどうかくらいは見たかったかな、なんて。

ピエロはピエロなりに死に様を見せつけにゃあならん。
その準備がまだできていないと思うのだけれど、エネルギー切れしているのも事実。
どうなるんだろうね、どうするんだろうね。
ここいらが限界なの、かな。