○○短歌というものについて

恋愛短歌、性愛短歌、青春短歌、BL短歌、百合短歌……
世の中には様々な○○短歌があり、自称しているものから、他人がカテゴライズしたものまであるだろう。

その、自称しているもの(こと)について少し思うことがある。

例えば、割った卵の黄身が二つだったという旨の歌があったとしよう。
私たちはそれをラッキーなことと思ってもいいし、単にただごと歌と思ってもいい。

しかしその短歌に#恋愛短歌のハッシュタグが就いていた場合、
黄身は君と掛けているだとか、二つは二人の暗喩であるとか、別の読み方に誘導される。

 そしてもしそれが作者の意図の場合。
 それはもう三十一文字での表現には失敗している。
 つまり三十一文字外の情報で読み方にバイアスをかけている。

BL短歌等も同様だ。
その一首もしくは一篇の中でボーイズラブであることが想起させられているなら、ボーイズラブを詠った作品として鑑賞するに値するが、BL短歌と銘打って発表することによってそう読ませているなら、ちょっとずるい手口ではないかとすら思う。
読者の解釈の余地を狭める行為でもあり、少なくとも私は短歌を読むときに、こういう読み方をしてください、と案内されたくはない。断じてない。

また、最近流行りのフォト短歌であるが、あれは大喜利によくある「写真で一言」の詩歌版だと思っている。短歌の一種と解釈しても良いのかもしれないが、少なくとも三十一文字外の情報があまりにも多いので、私はあくまで「フォト短歌」という別のジャンルだと思って距離を置いている。同じ駅名でも乗り換えに時間がかかるJRの駅とメトロの駅みたいなものだ。

 とことん三十一文字に感情が収まりきってなくて笑ってしまう。
 短歌じゃない媒体を使えばいいのに、と思っている。

突き詰めていくと、短歌というハッシュタグをつけることも必要ないことなのではとすら思えてくる。だってそれが短歌なら短歌と言わなくても短歌として鑑賞されるだろうし、短歌足り得ないならハッシュタグをつけても短歌には及ばない。
もちろん、検索のための機能として使っている人がほとんどだろうし、私も短歌のタグはつけている。ただ、見てもらって客観的なリアクションを確認したい、という理由さえ削げば私にとってそのタグすら不必要なものに感じる。

歌意の解釈を自ら説明する歌人に対して、もったいないことをするな、と常々思っていているが、〇〇短歌と銘打つのも実は結構な損なのではないだろうか。

我々は読者の多様な解釈の可能性によって作品を成り立たせている。
それを作者側が誘導するということに、私は抵抗を覚えてしまう。

  深読みをする人々を媒介し歌は知らない街で咲くのだ / 笠原楓奏

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