人の死なない短歌の話
とある映画を見た。
今は亡き大杉漣や小松政夫も出演している大変素晴らしい作品だった。
作中では何人かの人が亡くなったり、亡くなっていたりした。
然るべきときに然るべき理由で亡くなっていたので、ボロ泣きする以外に選択肢は無かった。
人は死ぬ。
これは紛うこと無き事実である。
人の死なない話をしよう。
これは現実逃避的発想なのかもしれない。
先日、私の歌集に2つの素晴らしい評をいただいた。
まずは枡英二さんによるもの。
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非常に読解力が高く、もしも私の短歌が現代文の問題になったとしたとき、「作者の意図を答えよ」という問いには完答できているものだと感じた。
無論、読み方は人それぞれであるべきだし、特定のどれかを作者として持ち上げることはない。
ただこの評は論理的であるし、私がそう考えていなくてもそう考えているような気がしてくるだけ丁寧な評であるということだ。
評の中に、「作者にとって歌は身近なものなのではないか」という論説が出てくる。
この文章を読んだときには、そうなのかな、自覚なかったな、くらいの感想だったのだが、実に数年ぶりとなる映画鑑賞をして、何かが結びつく音がした。
そういえば亡き父の残した唯一の家訓が「食事中に人の死ぬ話をするな」というものなのだ。
私には、父がそう言っていた記憶は残っていないが、そう言っていたという話を元に、私は頑なにその教えを守っている。
身近な人の死、それから身近な人の残した死に関する話。
それらは特別な感情ではなく、私にとってまさに「日常」である。
私は短歌を「創作」として捉えていない。
「日常」の延長として、詠む必要があるから詠む。
その気持ちは田中翠香さんにいただいた評で最後に引かれている歌にも存分に表れている。
こちらの評もまた、精読してくださった方の感想であることが感じられ、短歌のインプットアウトプットともに優れた歌人からこのような評をいただけたことは、アウトローアングラ天邪鬼歌人モドキの私としては大変光栄なことである。
我々は日常的に人を殺すことはない。
だから私の作品の中では人を殺さない。
しかし世界を見れば人は日常的に死ぬものである。
だから私の作品はあえて人の死なない話をしたい。
食事中に人の死ぬ話を避けるように、日常の一片として切り取られた歌集で、わざわざ人の死ぬ話をする必要はない。
他の歌人が「創作」をしているのであれば、人を殺める必要もあるのだろう。私はそれをしていないと言うだけの話だ。
長々と書き連ねてしまったが、私は時折知人に短歌を詠ませようとすることがある。
大抵、創作はできない、と言われることが多いのだが、「私のやってる方の」短歌なら多分きっとできるんじゃないかな。
この歌集がその参考になれば。