罪悪感という全ての原動力

何をするのにも、何をしないのにも、常に私につきまとうもの

「罪悪感」

いつからだろう、私は小学生くらいのときに「母親の自慢の息子でありたい」を通り越して、「父親の代わりになりたい」と強く思い始めていた。
父親は私の1歳の誕生日の前に死に、物心ついたときには父親の死は理解していたし、代わりに母の支えになりたいと思っていた。

私が何かを間違えて怒られているとき……よもやそれすら少ない程度には優等生であろうとしていたのだが、それが悲しかったから、怖かったから泣いていたのではない。
申し訳なかったのだ。誰に対して? 多分、母親に対して。

高校に行けなくなってしまって、結局中退したとき。
もしも罪悪感がなければあんなに焦らずに済んだのかもしれない。
父親の代わりになるためにこんなことをしている場合ではないという焦りも大きかったが、何より全てではなかったかもしれないが学校を辞めたことも昼間から家にいることも許容してくれた家族に対して申し訳なかった。
だから、せめてできることは無いかと思って料理も覚えたし洗濯もできるようになった。私に罪悪感がなければ、その時点で身につけようとは思わなかったかもしれない。

私がやたらと他人を救おうとしてしまうこと。
これが自己肯定感の維持のためだけではなく、何かの罪滅ぼしだとしたら。
私は、私が傷つけてきた人のことを心のどこかで覚えているのかもしれない。
他人に還元しても滅ぼせない罪。ならば永遠に抱え続けていくこととなる罪。

仮に私が誰かと喧嘩したとして、私は多分、自分側に非があることを認める。
そして相手に理由があったことを想像する。
相手の悪いところが見つかれば、彼はここを直すともっと幸せになれるのに、とそれを心配する。
その上で自分に正当性があると思えば主張するだろう。

でもね、こないだ言われたんだ。
「先輩は優しすぎます。相手の立場を想像して、相手の将来を心配するなんて普通しないです」と。
無意識のうちにやっていることを気付かされてしまった。
確かにそうだね、なんて返事をしたまま、相手を一方的に悪く言うことがこんなにも苦手であることを自覚したまま有効な対処法は見つかっていない。

私には友達がいる。
 友達がいないと私を縋ってきた人がいる。
私には家族がいる。
 家族が好きじゃないと頼ってきた人がいる。
私がしあわせか、はひとまず置いておくとして、恵まれている点というのは確かにある。
しかし私に近寄ってきた人にも別の点で私より恵まれていることはあるのだろう。
そもそも人同士を比べることは非常に難しい。

でも彼らに対して僕は、後ろめたさを覚える。
ああ、こんなこと前もあったな、とふと思い出したのは、私は高校を推薦入試で入学したので一般入試の同級生より少し早く進学が決定していたとき。
周りが頑張っている中自分だけ(だけではないが)もう終わっていることがとても申し訳なくて、彼らの気持ちを逆なですることのないように音楽室にこもっていた記憶がある。
でも3年生が早く部活に戻ってくると後輩たちはやりづらくなるだろうから、毎日部活に出ても良かったけど数日置きにしていた。

誰かに対する罪悪感、これが原因で死ぬ、ということは今後も大いに有り得ると思う。
私の味方でいてくれる人への罪悪感、これが原因で今まで死ねなかったとも思う。

罪悪感というこの感情は私を動かしたり動けないようにしたりする。
ご飯を食べていること、温かい部屋にいること、給料をもらうこと、
体調によってはこれすらも罪悪感の対象となる。

減らしたいなとは思いつつなかなかうまく行かないんだ。

生きていることへの罪悪感は減らさないことには、きっと。