聞き上手より生き上手になりたいんだよな

ありがたくも、誰かから相談されることの多い人生を歩んできた。
心中お察し申し上げがちな人間が重宝されるくらいには、人は人の話を受け止めてあげないものなのかもしれない。

私は比較的、共感性の高い生き物だと思う。
例を挙げるとすれば、映画はもう数年見ていない。
登場人物の感情に私の感情が揺さぶられすぎてしまって、それを120分も見続けたあとは疲労感がものすごいのだ。
小説なんかはまだ自分でペース配分ができるだけマシではあるが、やはり疲れることには変わりない。

しかも、ことさら創作物で摂取しなくても他人の感情に思いを馳せることは日常的な行動であるので、能動的にそれらを摂取するのはよほど気になる作品の時か、断りきれなかったときくらいだ。

ただここで明言しておかなければならないことがある。
当たり前のことだが、他人の感情は理解できるものではない。
相手の思考プロセスを何度も履修することで比較的精度の高い予測を立てることくらいはできるようになることもあるが、それはもともとの考え方が似ている人でやっと起こる現象であり、基本的には理解するに及ぶことはない。

それでも理解し得ない相手の感情に共感しようとするのは何故か。
怖いんだよ、他人が。
他人が怖いからなるべく相手の考え方と行動パターンを分析して予防と対策を講じないと不安で人と話せやしないんだ。
相手の言葉の裏を考えることを無駄だと一蹴されることもしばしばあるが、言葉通りに捉えて良いほどこの世界は素直にできていないし、私が考えているのは発言の裏ではなく発言のプロセスなんだ。
どういった理由で、どういった思考のもと、その発言に至ったのか。
これが紐解けると今後その人と話す時の大きな資料となる。
だから感情的になりやすい人ほど思考が単純になりやすいので実は扱いやすかったりする。面倒だから関わらないけど。

最初の話に戻ると、そうやって身につけてきた相手の心情を推し量ろうとする癖が、相談という形ではプラスに働くことが稀にある。
不幸中の幸いというか、相手のことを何一つ考えずに生きられたら楽だろうなとは思うんだけどね。

ただ、決して理解はしていない。
私に相談をして「わかるよ」と言われることは稀なのではなかろうか。
せいぜい、「想像できる」「わかる気がする」と言うのが限界である。

恋愛の相談になると「(恋人が)自分の言うことをわかってくれない」という主張をされることがあるが、理解されようとすると今後ずっと苦しいままだよ。
誰も君の言うことをわかってはくれない。
そのくらい現実は非情なものなので、理解できなくても尊重してくれる人と一緒になったらいいと思うよ。

君も僕も、全ての人間がそれぞれ個別の宗教だと思ってごらんよ。
ほとんどは相容れないように思えるだろう。
今この世界にはいくつもの宗教があるが、自分の信じるものを信じていれば、人の宗教を否定する必要はない。現に別の宗教の人々でも争いが起きないケースだってある。
彼らは互いに理解はし得ないものを尊重しているだけ。でもそれだけで共存はできる。

音楽で言えばロックが好きな人、クラシックが好きな人、演歌が好きな人、それぞれの好きは当然のように存在して良いわけで、わざわざ「あれは嫌いだ」という人たちが言い争っているだけに見える。紅白歌合戦を見れば、興味のない歌手のときにも会場は盛り上がっていて、「ああ、彼らにもファンがいるんだな」と思ったらそれ以上何を言う必要があるだろうか。

寛容であることというのはそれほどに難しいことなのだろうか。
抗うエネルギーのない人間としては、許容したほうが楽なだけという理由でここまで生きてきてしまった。

きっとこれからも理解されたいという感情を理解できないまま、理解されたい人の話をさも理解したかのように聞いていくのだろう。

わかってもらえたなんて思わないでね、私は君に興味がないだけだから。