熱意

時々、みんなちゃんと何かを好きでいて偉いなと思うことがある。

もちろん私にも好きなものやことくらいあるのだが、そのどれをとっても、より好きな人たちがいて、その人たちと話していると次第に自分は大して好きじゃないのではないか、と思ってしまう。

一応、10年近く続けてきた音楽は、未だにやめずにいるのだから好きなのだとは思う。
それでも音楽好き・楽器好きな人の熱意ある会話の中にいると自分がいかに興味を持って聞いていないかを痛感する。知識が足りないだけではない。その人の話にそもそも興味が湧いていないのだ。その程度の好奇心であるから、その程度の知識なんだろうと思う。

しかし特に音楽をやっていない人からしたら私も音楽好きであり楽器好きに見えるはずだ。その期待に応えられていないことが時々かなしくはなるが。

さて、私の趣味といえば、音楽と短歌と料理がまず思いつく。
しかしこれらを好んでいる本質はそのものにあらず、表現の達成にある。
即ち、演奏をすることも言葉を紡ぐことも美味しいものを作ることもそれ自体が目的なのではなく自己表現の手段の一つに過ぎないということだ。そして、それらは全て自己完結しない表現の手段として用いている。だから、他人がいない場所でそれらを楽しむことはほとんどない。こういうスタンスの人間はそれはそれとして存在するのだが、音楽をする歓びを心から楽しんでいる人と話が合うはずもなく、どうやって魅せるか、聞かせるか、そういうことを考えてしまう。

生粋のパフォーマーと言われればそうなのかもしれない。

短歌と料理は音楽より後に始めたが、面白いことに音楽含むその3つはほぼ同じ感覚で接することができる。特に脳の切り替えもなくシームレスに移行する。

何もないところから、或いは何か適当な材料から作品を創り、それが誰かの笑顔になる。
それを実現可能なツールとしての音楽や短歌や料理を私は大切にしている。

話が逸れてしまった。
結論として「好きなもの」が「楽しいこと」ではなく「楽しませること」だと気がついたという話なのだが、残念ながらこの話をしてもあまり他人とは盛り上がれないようだ。